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【連載第3回・最終回】「絶対に負けないものを、1つでも創るべき」

【連載第3回・最終回】「絶対に負けないものを、1つでも創るべき」

公開日:2026.07.09

更新日:2026.07.02

食団連 佐藤裕久代表理事が、外食経営者へ送る想いと原点

連載最終回は、苦境にある外食経営者へのメッセージ、そして佐藤裕久代表理事の原点である1995年・阪神淡路大震災の炊き出しから生まれた「玉ねぎスープ」の物語。さらに、初代会長・服部幸應先生から受け継いだ「公(おおやけ)のマインド」について深く伺う。聞き手は食団連・広報メンバーの和田裕直氏(NPO法人居酒屋甲子園9代目理事長/株式会社てっぺん 代表取締役)。

「絶対に誰にもできないことを、極めることだ」

和田:いまこの瞬間、目の前の支払いに追われ、未来が見えなくなっている経営者も少なくありません。佐藤代表理事から、何か伝えたいことはありますか?

佐藤代表理事:僕らも黎明期はそうだったんです。1995年12月13日にバルニバービの1号店を大阪・南船場でオープンしました[^1]。酒の支払いは翌1月末。どう計算しても払えない。

そのとき、僕は酒屋さんに正直に伝えました。「2月10日まで待ってほしい」と。酒屋さんは「無理でしょう。もう60日以上タダで持ってきているじゃないか」と返してきた。でも最後に、こう言ってくれたんです──「待てないけれど、忘れておきます。僕、よくミスして忘れるんですよ」と。本当に忘れたふりをしてくれて、2月10日に「すみません、忘れていました」と集金に来てくれた。

追い詰められている人間が一番やってはいけないのは、ごまかすこと。誰かのせいにすること。言い訳をすること。解決できないなら、絶対に正々堂々と向き合うべきだ、ということ。これがまず1つです。

そしてもう1つ。これが本質なんですが──「絶対に誰にもできないことを、極めること」。例えば、和田さんの会社「てっぺん」の創業者である大嶋〔啓介〕さんは、朝礼1つで一生食べていけるわけです[^2]。

業態、内装、ロケーション、調理、接客、商品、サービス、どんな分野でもいい。どこか1つでいいから、絶対に負けないものを創る。負けないものを作らない限り、勝てない。だったら戦うべきじゃない。

和田:耳が痛いです。大嶋から会社を引き継いで5年、僕も「絶対に負けないもの」をどう磨き続けるかを、毎日問い続けています[^3]。

佐藤代表理事:30代の若い経営者なら、夜も寝ずに死に物狂いで、どこにも負けない何者かを創るという覚悟を持ってほしい。いま、楽して飯を食っているように見えるベテラン経営者でも、死ぬ思いをしていない人は1人もいないと、僕は思います。

努力が報われるとは限らない。報われるかどうかは、神様しか分からない。でも、努力しない限り、報われることもない。

たった1品のメニューでもいい。たった1つの接客の所作でもいい。座り心地の良い椅子1脚でもいい。どこにも負けないものを1つ作り上げる。僕の経験上、そこには何かしらの突破口が生まれる気配があると思っています。**

原点の一杯──淡路島の玉ねぎスープ

和田:ご自身の飲食人生の中で、忘れられない「この一品、一杯」を挙げるとすれば、何でしょうか。

佐藤代表理事:難しい質問ですね。いろいろある。でも、1つ挙げるとしたら──玉ねぎスープです。

淡路島の玉ねぎは、本当にうまい。100万円かけて500杯分を一度に作れる大鍋を作って、淡路島の玉ねぎだけでスープを仕込み、地域のお祭りで無料で振る舞っているんですが、この玉ねぎスープには、僕の原点である1995年1月の阪神淡路大震災の時に提供した炊き出しのおかゆと[^4]、同じ文脈があります。

人が希望を失ったり、苦しい逆境に直面したとき、温かい一杯を口にするだけで、ホッとできる。あのときの炊き出しには、確かにそういう価値があった。今の若い人たちの中には阪神淡路大震災を知らない方も多いけれど、そういう人たちに、誇るべき淡路島の玉ねぎという生産物をベースにした一杯をあの時のおかゆと同じ想いで届けたかった。だから、玉ねぎスープなんです。

和田:お話しいただくほどに、佐藤代表理事のお人柄が伝わってきます。

服部幸應先生から受け継ぐ「公(おおやけ)」のマインド

和田:最後に、初代会長の服部幸應先生がどんな思いで食団連を託していかれたのか、佐藤代表理事の言葉でお聞かせください。

佐藤代表理事:服部幸應先生は、本当に素晴らしいお方でした[^5]。よくここまでやられたな、と思うほど、広範囲の役職を担っておられた。学校法人服部学園理事長、服部栄養専門学校校長、公益社団法人全国調理師養成施設協会会長[^6]──肩書きが何個あったか分からないくらいです。それでいて、自分の学園の話を一切しなかったんじゃないでしょうか。

実は僕が食団連の会長就任を断ったのも、ここに理由があります。僕には自分の会社がある。日々の給料は外食産業から得ている。一方、服部先生は学校の経営者であって、外食産業からの個人利益とは完全に切り離されたポジションにあった。あれだけ「公」のマインドで外食産業を見てくれた人は、ほかにいないんです。

だから、自分の利益誘導を考えるような人が食団連の理事には1人もいません。「もう少し自分のことを語ったらいいのに」と当団体の高橋専務理事と話すぐらいです。そういう意味での服部先生の魂の継承は、できていると思っています。

閾値を超える、その日まで

佐藤代表理事:「閾値(しきいち)」って、ありますよね。ものごとが顕在化するために必要な閾値。いま、食団連の活動は外から見れば何の成果も上がっていないように見えるかもしれない。グラスの底に、まだ水がたまっていっている段階。でも、間もなく閾値を超える、という信念です。

僕は、閾値を超えて動き出すところまでが自分の役割だと思っています。そこから先は、次の世代に託すべきと。

30年前、外食産業で働く人間の社会的評価は、決して高くなかった時代がありました。でも今は、ニューヨークでもロンドンでも、「レストランを経営しています」と言えば、「素晴らしい」と返ってくる時代です。

外食産業が「仕事」として、社会から認められるようになってきた。一アルバイトの方たちにも、ちゃんとした待遇を出せるようにならなければいけない。自分の人生設計を描けるような産業に。そこに伴走していく組織として、食団連があります。ならば、僕は手伝う価値もあるし、自分の時間をコミットする意義があると思って、やっているんです。

和田:食団連を問わず食に関わる全ての方、そしてこれから業界を支えていく若い経営者の方々に、本当に読んでほしいお話になりました。本日は、貴重なお時間を、ありがとうございました。


第三回の総括(和田)

3回にわたる連載を通じて、佐藤代表理事の見ている景色を少しでも共有できていれば嬉しく思います。「閾値を超えるまで」──その閾値を超えた先に、どんな景色があるのか。次回からは、食団連を支えるその他メンバーにもバトンをつなぎ、それぞれの視点から食産業の未来像を多角的に描いていきたいと思います。

ご一読、ありがとうございました。


出典・参考文献

[^1]: 株式会社バルニバービ 会社沿革。1991年創業、大阪・南船場にカフェレストラン1号店を開業。GOETHE「外食産業のレジェンドが地方創生に挑む:佐藤 裕久」
https://goetheweb.jp/person/article/20210725-hirohisa-sato

[^2]: 株式会社てっぺん 創業者・大嶋啓介氏は2004年「居酒屋てっぺん」を設立、「本気の朝礼」が国内外で話題となった。
https://teppen.co/company/

[^3]: ぐるなび通信「居酒屋甲子園9代目理事長・和田 裕直 氏(株式会社てっぺん)が語る『イザコー』の価値と未来」和田裕直氏は2020年に株式会社てっぺん代表取締役社長に就任。
https://pro.gnavi.co.jp/magazine/t_izakaya/cat_2/a_4491/

[^4]: 阪神淡路大震災(1995年1月17日発生)。佐藤裕久会長は震災直後の炊き出し経験を、後の飲食業の原点として語っている。GOETHE「外食産業のレジェンドが地方創生に挑む:佐藤 裕久」
https://goetheweb.jp/person/article/20210725-hirohisa-sato

[^5]: 服部幸應氏(はっとり・ゆきお、1945年12月16日 - 2024年10月4日)。料理評論家・教育者。学位は博士(医学)(昭和大学・2005年)。Wikipedia「服部幸應」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E5%B9%B8%E6%87%89

[^6]: 食団連設立当時、服部幸應氏は学校法人服部学園理事長・服部栄養専門学校校長・公益社団法人全国調理師養成施設協会会長などを歴任。日本食糧新聞「業界NEWS:『日本飲食団体連合会』設立」
https://news.nissyoku.co.jp/restaurant/goushi20220128015346210